ヱヴァンゲリヲン

【自己肯定】ヱヴァンゲリヲン、主人公達から読み解く裏の作品テーマ。

2021年1月23日。

1995年から作品放送が始まったヱヴァンゲリヲンシリーズが「劇場版シン・ヱヴァンゲリヲンii」の公開をへて完結する。

およそ15年の歳月、どうしてこの作品がここまで社会に浸透しているのか?

SF作品として面白いのは分かる。

だが決してCGや卓越したシナリオやキャラクターだけではない。

ヱヴァンゲリヲンという作品には、そんな単純な人間模様では語れない何かがある。

最終章の劇場公開を迎え、エヴァシリーズの裏テーマを読み解くことで1月に迎える劇場公開をより深く体感する為に今回は、

「ヱヴァンゲリヲンの裏テーマ」と言う、観点から作品をご紹介したい。

ヱヴァンゲリヲン・シリーズ作品で伝えたいこと。作品のテーマとは?

エヴァンゲリオンのテーマ(主題)は、セカンドインパクトと呼ばれる世界的災害後、碇シンジが使徒と呼ばれる敵に打ち勝ち、人類を守る。

っと言ったテーマだ。

新劇場版のテーマもザックリと言えば「未曾有の災害後の日本で少年少女達が未知の生物と戦う」と言う物だろう。

テレビシリーズを見ているファンにとっては、かなり喜ばしくない解釈だが、

新劇場版ヱヴァンゲリヲンから見た年代の人たちにとってはどうだろうか?

新劇場版:ヱヴァンゲリヲンではキャラクターのバックボーンが説明不足

テレビシリーズをご存じない人にとっては、ヱヴァンゲリヲンの世界観とその内容に驚かれたと思う。

類をみない世界観の設定と、奇抜な演出、魅力的なキャラクターたち。

しかし、その影で前作のテレビシリーズを体験しているファンは、実はそんなリメイクされた劇場版が初見の人達よりも大興奮で劇場をあとにしていたのだ。

その理由は、主人公達、キャラクターの内面やバックボーンを理解しているか

と言う、数十年にわたる作品に対する愛情だ。

そして残念だが、劇場版・新ヱヴァンゲリヲンでは、映画の尺の為その説明が不十分と言うわけではないが、

テレビシリーズに対し、キャラクターの情報の量がかなり少ない。

ヱヴァンゲリヲンの裏テーマとは、碇シンジの心の成長と共に自己確立を獲るというもの

ヱヴァンゲリヲンのキャラクターは従来のアニメ作品と違い、主人公がかなりナイーブだ。

言葉を悪くすれば、根暗でひねくれているのだ。

スネ夫じゃないよ(^_^)/

葛城ミサト、式波アスカといった、快活なキャラクターも心の底に根深いトラウマを抱え、作品全体でそれらを、キャラクターごとに1話1話、サイドストーリーを使って語られている。

新劇場版についてはこれが全くない。

葛城ミサトと使徒との因縁、式波アスカの出生と生い立ち。

新劇場版が初見の人達には、これらを語られる機会すらなく、気づくに至らないだろう。

肉親からの愛情の欠如と喪失

エヴァンゲリヲンのキャラクターには主人公やそのほかの脇役たちは、誰かしら肉親がいない。

それは、作品に登場しないと言うわけではなく、別離や死別などといった理由だ。

セカンドインパクトを経験した世代に当たる、大人達キャラクターもまた災害により肉親を失っている。

それ故、キャラウター一人一人にどこかしら影がある。

ケース1・碇シンジの場合

本作の主人公である碇シンジ。

彼もまた、この肉親からの別離にあっている。

幼少のころヱヴァンゲリヲンのプロトタイプの起動実験では母・碇ユイを初号機に取り込まれ失い。

その後、父・碇ゲンドウと2人になるが、たった一人の肉親である碇ゲンドウは、息子・碇シンジを「知り合いの先生」と言う人物に預けてしまう。

碇ゲンドウはその後息子・碇シンジと会うこともなく、再会に至るまで何の接触もない。

本編では駅のホームで一人、父に捨てられた幼少の碇シンジが泣いているシーンが挟まれている。

結果としてシンジは碇ゲンドウから捨てられてしまったのである。

シンジ自身もそれをトラウマにし

「やっぱりボクは誰にもいらないだ」

っといった言葉を残す。

ケース2・式波アスカの場合

式波アスカの場合は更に残酷だ。

式波アスカ(惣流・アスカ・ラングレー)の母親・惣流・キョウコ・ツェッペリンに至っては、目の前で母親が絞首自殺という、残酷な思い出がある。

死因は絞首刑だが、母・惣流・キョウコ・ツェッペリンは元々ネルフの前身組織であるゲヒルン研究員であり。

シンジの母同様・弐号機起動実験に寄り、ヱヴァに魂だけ取り込まれ手しまい、その後、精神を病んでしまった故の自殺である。

母の死後、親戚に預けられた式波アスカであったが、頑なな性格と、いつ人から「いらなく」なってしまうかの不安から、自分自身を鼓舞し、結果的に他人を寄せ付けない性格になってしまう。

本編では「私を見て!」と周囲に対し他人認証に近い、言葉を叫ぶシーンが挟まれている。

ケース3・綾波レイの場合

綾波レイ。

人造人間である彼女に至っては、そもそも両親すら存在しない。

無表情な彼女だが碇ゲンドウの前だけは笑顔を見せるという人間らしい?姿も垣間見える。

だが碇ゲンドウにとってそれは、亡き妻・ユイの面影を追い自分を慰めているにしかならず。

綾波レイとってもそれは、模造された自分自身に対し寂しさを植え付けている。

新劇場版では、碇シンジとの接触を唯一の自己表現と、淡い感情を芽吹かせていた。

ケース4・他主人公を取り巻くキャラクター達

ヱヴァンゲリヲンの登場キャラクターで肉親を失ったのは何も主人公達だけではない。

葛城ミサトに至っては北極のアダムと呼ばれる第一使徒を回収するさい、セカンドインパクトに会い父親を目の前で亡くし。

ミサトの親友である赤木リツコに至っては、母を追い研究員として同じ職場で働き、元司令室での投身自殺により母を亡くしている。

主人公碇シンジの父親・ゲンドウとその側近の冬月コウゾウは、最愛の人・碇ユイを失っている。

さらに、シンジの周りの友人達も死別ではないが両親と離れ暮らしている。

ヱヴァンゲリヲンは自己確立の物語。

ヱヴァンゲリヲンのキャラクター達は全員心に寂しさを内包している。

作品ではそれを心の扉「ATフィール」とし略され。

最終話では、その人類全体のATフィールドの氷解こそが、ゼーレの目標であることが、

「人類を一つにする」と言う言葉と共に、肉体を融解せ一つになっていくシーンが描かれている。

人は他人を認識し、始めて自分が何者かであるか、認識する。

それ故、人は一人では己を観測できず、また他人の存在だけが自分に足りない人間性を認識させるという欠点を内包している。

人間は誰しも未完成で、他人に寄り添い補完し合う存在

ヱヴァンゲリヲンの登場キャラクターには全員に共通することがある。

それは、孤独だ。

登場キャラクターの多くに家族のつながりの喪失を経験している。

人間にとって家族とは、いわば自分のかけた部分を補完しうる、最初の他人にあたる。

だが、それを失った人間は、ある種不完全な心の状態を維持しながら生きていかねばならない。

碇シンジは、この作品で孤独だった人生が、葛城ミサトに会うことで帰る家を手に入れ、新しい学校で友人達と出会い、共に戦い生活し運命を共にする仲間と出会うことで、少しずつ自己確立してく。

ヱヴァンゲリヲンにとって敵と戦うことは対して問題ではないのだ。

生きるか死ぬかという生物の生存本能ではなく。

一人で生きていけない寂しさと、人を求めずにはいられない切なさが作品にはある。

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