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【風立ちぬ】実際の堀越二郎の人物像

 

こんにちは。

「風立ちぬ」は、宮崎駿監督が第二次大戦中に実在した小説家・堀辰雄と航空技師設計士だった堀越二郎をモデルに一人の人物として書き上げた作品です。

 

堀越二郎はゼロ戦の生みの親で、航空技師、設計士としての実績が残るだけとなり、その点を堀辰雄の自伝から人間描写を肉づけされています。

 

作中では、堀越二郎をベースに物語が進みますが、実際の彼の人生とはどんなものだったのでしょう?

 

今回は、映画「風立ちぬ」の主人公のモデルとなった実際の堀越二郎の経歴や人間を解説したいと思います。

 

航空機設計技師・堀越二郎

堀越二郎は劇中同様に、史実でも第二次世界大戦中に航空技師として活躍しました。

1903年6月22日、群馬県藤岡市にて生誕。

東京帝国大学(旧東大)工学部航空学科へ進学し首席で卒業

そのまま三菱重工へと入社し、航空機設計士としての道を着々と歩み始めます。

また劇中と同様に、堀越二郎は三菱から支度金400圓(現在の約100万円相当)を渡してヨーロッパやアメリカへ約1年半派遣することが出来ました。

 

劇中では、アメリカとは敵対しており、ヨーロッパ遠征のみ描写されていました。

その後、1935年ゼロ戦のひな型となる試作機「9試艦上戦闘機」を設計。

機体性能や航続距離に問題があったが改良に改良を加え、この9試戦闘機がのちのゼロ戦「零式艦上戦闘機」となった。

劇中ではゼロ戦はラストシーンのみの登場となり、作中メインで登場するのはこの「9試艦上戦闘機(9試単座艦上戦闘機)」である。

ファイル:A5M Claude.jpg - Wikipedia

ファイル:Mitsubishi A5M.svg - Wikipedia

 

 

戦後の堀越二郎の行方

堀越二郎は戦後は飛行機の設計をすることはありませんでした。

ただ、劇中の話は太平洋戦争のさなかを描かれており、堀越二郎はその後も、雷電、烈風と言った戦闘機を設計、戦後分割された新中日本重工にて勤務したが、退職。

飛行設計士から手を引いた堀越はその後、なんと宇宙航空開発機構JAXAで教鞭をとっていた。

2年後(1965年)には、防衛大学でも教授として教鞭をとり、また

その4年後(1972年)には日本大学生産工学部で教授職に就いた。

 

8人大家族の大黒柱・堀越二郎

堀越二郎は映画と違い、現実では妻を結核や病気ではなくしていない。

映画の結核でなくなる女性のモデルになったのは、堀越ではなく堀辰雄の方の先妻であり、

堀越に至っては、妻・須磨子さんとともに6人の子供を授かる子宝に恵まれている。

また趣味はゴルフであり、長男である堀越雅郎とゴルフコースにでるなど、子煩悩であり、また家族中も良好で、幸福な人生を送っていた。

 

 

堀越二郎の長男・堀越雅郎が語る思い出

長男・堀越雅郎が語るには、父親としての堀越二郎は几帳面であり教育熱心だったと語られている。

戦後・敗戦国となりアメリカから一切の戦闘機の設計を書くことが禁止されたことにさすがに落ち込んでいたが、子供たちをみな大学に通わせるようになったあたりで、飛行機設計が書けない現実をふっきったと語っています。

 

戦後を生き延びた堀越二郎の生涯

堀越二郎は劇中では敗戦後、妻を亡くしそれでも生きていくことを決意します。

現実の堀越二郎は妻をなくすことなく終戦を迎え、敗戦国であることで飛行機設計を断念せざるをえず、夢を潰えてしまします。

ですが、良妻に恵まれたことと、敗戦時も安定した仕事に就くことができ、大学で教鞭を取りながら、6人の子供を大学に通わせるなど、その時代には珍しい順風満帆な人生を謳歌したと言えます。

最後に、堀越二郎の家では日独伊三国同盟が締結された時に、すでに日本の敗戦を予感しながらも航空機設計の夢を追い、自らの子供たちには

「職業の選択に失敗した、永続的な仕事について欲しい」

とこぼしていた。

 

スタジオジブリ|STUDIO GHIBLI

 

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